前進だけがすべてではない。

 

幼少期からカラダは丈夫なほうである。風邪もめったに引かないし、大きなケガもしたことがない。特に足腰は屈強で、生まれてこのかた、足をくじいたことも腰を痛めたこともない。だから、今回のハイクも、用心さえしていれば大丈夫だと思っていた。

そんな私が、ケガをした。

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場所は、スタート地点から109.8mile(約175.7km)のところにあるワーナースプリングという街。いつのまにか、両足の小指と足の裏の皮が剥がれていたのだ。

理由は明白だった。毎日11〜13kgの荷物を背負って、15〜20mile(24〜32km)の山道を歩いているのだ。足への負担は積み重なるばかりである。

でも、たかがこれくらい・・・私はそう思った。こんなん気にしていたら、4200kmなんて踏破できるかと。カリフォルニアの大自然の中を歩く悦びに満ちあふれていた私は、前に進むことしか頭になかった。

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出発すべく腰を上げようとしたその時、『本当に、その選択でいいのか?』私は自分に問うた。私は決断する際、必ずそう問いかけるようにしている。特に山においては、自分の身は自分でしか守れないのだ。加えて、すべて自己責任である。

ここは異国の地。数日レベルのハイクではない。不衛生な状態も長くつづく。症状が悪化したら長期離脱もあり得る。病院行きの可能性だってある。さあどうする、俺。行くのか。行かないのか。

結論。今日明日は、足の治療に専念する。

そもそも、スピードを競っているわけではない。約6カ月の長丁場。急ぐ理由もないのである。留まる勇気も必要だ。そう自分に言い聞かせて、ゆっくり休みをとることにした。

さて、隣のグラウンドで開催されている少年野球でも応援するか。

 

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こうやって山と離れるのも、ロングトレイルならではの魅力なのではないだろうか。「がんばれ、将来のメジャーリーガー!」

愛しのジュリアン

歩きはじめて数日。早くも、ジュリアンという名の女性と恋に落ちた。

なーんてことがあったら、それはそれでハッピーなのだが、そうではない。Julianというステキな街におりてきたのだ(食料補給のために、週イチくらいで街にはおりることになっている)。ここは、ゴールドラッシュ時代に栄えたサンディエゴの小さな街。歴史ある街並みが特徴的である。

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広告業界に身を置いてきた自分にとっては、80年代のキューピーマヨネーズの広告を彷彿とさせる風景。「ハンバーガーを焼くのを卒業して、アメリカン・ジゴロになった(当時のキャッチコピー)」みたいな。とにかく歩いているだけで愉しいのだ。ジュリアーン、ジュリアーン、ジュリアン Wont you stay for me〜♪ と口ずさんでしまうほどである。

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PCTハイカー御用達の店といえば、アップルパイで有名な『Mam’s Pie』。なんと、ハイカーは無料でランチが食べられるのである。もちろん、私もそれを目当てに足を運んだ。迎えてくれたのは、感じが良く、やさしい笑顔のアメリカングランドマザー。迷うことなく、アップルパイとコーヒーを頼んだ。

他のハイカーもいたのだが、なんとアイスやサンドイッチやスープも食べているではないか。そう、実はここ、がっつり注文してもOKなのだ。こんなところにも、控え目っぷりが出てしまう私・・・。そういえば、前職時代、某エライ人が「営業は、あつかましさが大事やぞ」とよく言っていた。やはり、営業職を選択しなかったのは正解だったようだ。

リンゴの甘さとシナモンの香り。そして、ハイカーフレンドリーな雰囲気。その余韻に浸りながら、店をあとにする。

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街を歩くと、どこからともなく聞こえてくるのは・・・ジュリアン Wont you stay for me〜♪

Julianの町歌になることを願ってやまない。

スタート

成田空港に着き、いよいよ人生初の国際線。すでに気分は海外モード。とりあえず、『はじめての海外』的な本を読んでみる。搭乗後、通路をふさいでいたオジさんがいたので、さっそく「Excuse me!」。オジさん振り向く。明らかに日本人・・・。日系人のフリを決め込む。

「堕ちたりしないだろうか・・・」という私の不安をよそに、飛行機は無事、乗継ぎを経てサンディエゴに到着。迎えに来てくれていたスカウトさんの車に乗る。そう、スタート前日は、スカウト宅に泊まるのだ。彼は『トレイルエンジェル』と言われるハイカーのサポーター。ボランティアでこういった援助をしている。アメリカならではの素晴らしい文化だ。

私が訪ずれた日は、40名くらいのハイカーがいただろうか。当たり前だが、会話はすべて英語。若干パニック気味だが、挨拶ならできる。「Nice to meet you. My name is “Taka”. And what is your name?」の多投である。

おかげで、少しずつ「Hi “Taka”!」と呼ばれるように。滅多にいない東洋人だから覚えやすいのだろう。しかしだ。逆はタイヘンなのだ。誰が、トムでウォレンでピーターでダニエルか、さっぱりなのである。だから、声をかけられたら 得意の“また会ったね”スマイルで凌ぐしかないのであった。

そんなこんなで、一夜が明け、朝6時前にクルマで出発。数十分後、ついにスタート地点であるメキシコの国境前に着いたのであった。躰の奥底のほうから、感情が込み上げてくる。ただただ、ここに立てたことが嬉しい。トレイルを一歩たりとも進んではいない。しかし、スタートラインに立たなければ、何事も始まらないのである。そこに立った者だけが、前に進む権利を得るのだ。

初めてのパスポート、そして・・・

36歳にして初めての海外旅行。当然ながら、パスポートの取得も初めてである。

え?戸籍謄本が必要なの?という面倒くささはあったものの、意外とあっけない感じ。2回ほど都庁に足を運んで、無事手にすることができた。

私は、この色で十分満足だ。

「なんで黒(青)なの?」。複数の人からそう言われた。

「そりゃあ、10年モノじゃなくて5年モノだからさ」と当然のように思っていたのだが、どうやら多くの人は10年モノを取るようだ。たしかに、手数料は5000円しか違わない。10年モノのほうがトクである。ただ、36歳のパスポートビギナーにはそんな度胸もしたたかさもない。ビギナー界の常識として、迷わず一番低いレベルのものを選ぶのである。

パスポートを取得すれば恐いものなし!と思っていたのもつかの間、実は、観光ビザが必要とのこと。90日以上の渡航に関しては、ビザが要るのだ。よく耳にするESTA(電子渡航認証システム)ごときではダメなのである。

ただ、このビザが厄介で、パスポートのように簡単には取得できないのである。米国大使館のサイト(すべて英文)から申請を行ない、さらに英文の書類を複数枚提出しなければならないのだ。「PCTの準備の7割は、ビザの取得」と言う人もいるほどである。

ご協力いただいた皆様のおかげです。

海外旅行が初めての私でも、頑張ればビザ用の英文ぐらい書ける・・・・・・なんてことはあるはずがない。というわけで、すぐさま語学堪能な仲間を頼り、提出した。と、ここで終わらないのがビザの取得。最後に、米国大使館での面接が待っていたのだ。面接官は、アメリカ人とおぼしき女性。当然、英語である。所要時間は4~5分ぐらいだろうか。いくつか質問されたが、覚えている内容といえば・・・・・・

面接官:「なんの目的で行くのか?(みたいな質問)」

私:「ハイクスルー ピーシーティー」

面接管:「いつから、こういうことをやっているのか?(みたいな質問)」

私:「テンイヤーズ アゴー」

面接官:「最初に行ったとこはどこか?(みたいな質問)」

私:「マウント フージー」

 ぐらい。

面接官の苦笑いは気のせいだろうか・・・・・・。いずれにせよ、ビザは取得できた。

4200kmの山歩き

普通であれば、退職してすぐに仕事を探す(営業活動をする)のかも知れない。でも、そうはしなかった。

これまで思うようにできなかった山歩きを、しばらく存分に楽しみたい。そう考えたのだ。前職では、11年半働きっぱなしだったといっても過言ではない。有給休暇も体調不良時にたった数日使ったぐらい。この退職後の空白期間を逃してはならないという思いに駆られたのである。

行き先は、以前から憧れを抱いていた『パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)』。PCTは、アメリカ・メキシコ国境付近からアメリカ・カナダ国境付近まで続く、約4200㎞の長距離自然歩道。アメリカ三大長距離自然歩道のひとつである。ここを、バックパックひとつ背負って歩き切るのだ。移動手段は、徒歩のみ。4月26日にスタート地点を出発し、9月末にゴール地点に到達する予定。約5ヵ月間にわたるハイキングだ。基本、テント生活だが、約1週間ごとに街に下り、食料を補給。それを繰り返しながら、踏破を目指すのである。

西海岸寄りがPCT

ただ、断っておきたいのは、大きなチャレンジを試みようと思っているわけではないということだ。旅に行くとか、冒険に行くとか、そういうつもりは一切ない。そもそも、自分は旅人でも、冒険家でもない。ただ単純に、いちハイカーとして、その土地土地の自然や文化に触れながら歩きつづけたいだけである。

言葉も文化も異なる地で、5ヵ月かけて4200kmを踏破する。当然ながら、不安はある。家族も含め多くの方々からも心配された。でも、別に生死をかけて世界最高峰への登頂を目指すわけではない。自然道は日本にだってたくさんある。ただ、それがかなり長く、5ヵ月ぐらいの歳月を要するだけ、のことである。

もちろん、甘く見ているわけではないが、必要以上に驚くほどのことではない。ただひとつだけ気にかかっていることを挙げるなら、これが根津貴央36歳の、人生初の海外旅行ということぐらいだ。

退職

11年半勤めた会社を辞めました。エン・ジャパン(株)という会社です。

同社の設立が2000年1月。自分が入社したのが同年9月。当時、従業員数はたかだか20~30名。家族も友達も知らないような無名のベンチャー企業でした。その後、急成長を遂げ、JASDAQにも上場、一時は従業員数が1000名を超えたほど。一方で、リーマンショックでは大打撃を受け、賞与カットや希望退職も行なうなど辛酸もなめました。

ただ、創業期に入社したおかげで、絶頂期もドン底も味わえたのは、本当に良かった。さまざまな経験をさせていただきました。

事業も仲間も好きだったので、このまま続けていくという選択肢があったのも事実。しかし、辞めることを決意しました。理由はさまざまあるのですが、3つ挙げるとするなら・・・

1. いちライターとして、自然を通じて世の中に伝えるべきことがあると感じた。 2.ネットの世界ではなく、リアルの世界で生きていきたかった。        3.母の急死を経験し、死を身近に感じた。 

 

 

 

 

 

 

では、私がこれから何になるのかというと、フリーランスのアウトドアライターです。

私はこれまで、登山(単独行)を通じて、孤独になることの素晴らしさを味わってきました。ケータイもスマホも使えない中、自分の思うようになるはずもない大自然と対峙する。何をするにもすべて自分の判断。自ずと、自分を信じ、頼るようになる。時には自分の無力さを、時には自分の強さも実感する。独りになることで人のありがたさも心からわかるようになるのです。

多くの人が四六時中デジタルガジェットに触れている現在。常に誰かとつながっている(つながった気になっている)状態から離れ、孤独になること、つながらないことでわかる大事なことがあると思うのです。孤独はさみしいことではなく、自分と向き合うための素敵な時間。それを私は自然の中を歩く行為を通じて伝えていきたいと考えています。

36歳での転身。安定収入も、地位も捨て、一からのスタート。リスクは山ほどある。でも、一度きりの人生、何をしてまっとうしたいか考えた末にくだした決断です。