ロングトレイルは遠足である。(つづき)

 

ロングトレイルにおけるヒッチハイク。それは、街におりる手段でしかない。そう私は考えていた。しかし、驚いたことに本当にヒッチハイクをしているハイカーが多数いるのである。言っている意味が分かるだろうか。

 

全トレイルを歩くスルーハイカーであるにもかかわらず、十数マイルを平気でスキップしている人がいるのだ。

これは、ゴールすることが目的になってしまっているハイカーの典型である。もはや、踏破(困難な道や長い道のりを歩き通すこと)ですらない。

私にとって、踏破すること自体はあまり重要ではない。踏破するつもりではあるが、決してゴールに辿り着きたいわけではない。私は、PCTのすべてを余すところなく味わいたい、楽しみたいだけである。だから、結果的に踏破することになる。もし、何らかの理由でかなり急がなければならなくなり、距離のことしか考える余裕がない日々が始まるとしたら・・・私は迷わず踏破をあきらめるだろう。

そんな私が実践している『ロングトレイル(PCT)を楽しむ上で、やってはいけないこと』を、ここで紹介したいと思う。ちなみに、あくまで自分が心がけているだけであって、やってしまっている人を批判するつもりはない。 

【その1】 計画にこだわらない。

もちろん、計画は大事である。しかし、週末登山ではなく約半年にも及ぶハイキング。それはもはや日常生活であり、計画通り、予定調和がつまらなくなったりするものである。考えてみてほしい。もし、これから半年間、決められた通りの生活を送らなければならないとしたら。急に思い立ってどこかに出かけたり、友だちに誘われて飲みに行ったり、同僚のもうやんカレーランチデリバリーに便乗したり・・・こういう想定外のこと(些細なハプニング、ちょっとしたサプライズ)があるからこそ、日常生活はもちろん人生は楽しいのだ。ロングトレイルも同様である。私にも計画はあるが(フライトの都合やビザの期限もあるので)、なるべく余裕を持たせている。おかげで、寄り道したり、ハイカーたちと意気投合して飲み明かしたりして、トレイルを楽しむことができている。

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【その2】 ナイトハイクをしない。

しないと言いつつ、すでに3〜4回ほど経験している。正直、ナイトハイクをすべきところもある。たとえば、灼熱の砂漠地帯。日中に歩くことが危険な場合(身体に過度な負担がかかる)もあるからだ。しかし、そういった必然性がない限りはしないようにしている。なぜか。楽しくないからだ。トレイルを満喫できないからだ。視界は狭まり、景色は見えず、草木も動物も寝静まる中をただただ歩いていく。涼しいので距離はかせげる。しかしそれは、距離をかせぐためだけのものでしかないと私は考えている。日の出と共に歩きはじめ、日没と共に歩みを止める。それが、私のスタイルである。

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【その3】 音楽を聴かない。

イヤホンで音楽を聴きながらハイクしない、という意味である。聴覚を奪われたハイキングは、鼻をつまんでの食事と同じであると私は思うのだ。トレイルの楽しさが半減してしまうのは明らかである。森の中の空気感、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、風のそよぎ・・・こういったものがすべて奪われるのだ。そこまでして音楽を優先させる理由は、私にはない。何より、お気に入りの曲を聞いているうちに今日の目的地に着いてしまった・・・なんてことになりかねない。距離をかせぎたい人にとっては都合のいい手段かもしれない。でも、私はそうではない。自分の五感を総動員してトレイルを味わいたいのである。

PCT踏破?アメリカ縦断? クソ食らえだ。

※2155mile地点の街、Cascade Locks(カスケードロックス)より。数時間後に、知人の結婚式の二次会にSkypeで参加する予定。うまくいくのかどうか・・・。

 

 

ロングトレイルは遠足である。

PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)も2000mileを超えた。残るは700mile弱である。

2000mile歩いて思うのは、“ロングトレイルは遠足である” ということだ。正しい日本語で言うと、“ロング・ディスタンス・ハイクは遠足である” になろうか。ただ、分かりやすさを重視して前者をタイトルにした。

遠足でお決まりのフレーズと言えば、『家に帰るまでが遠足です!』である。本来これは、気をつけて帰るようにという意味であろうが、私は拡大解釈して、行き先以外もすべて遠足の一部であることを意味していると捉えている。

事実、生徒にとってはそうなのである。しおりを作ったり、おやつを買いに行ったりするあたりから、すでに遠足は始まっているのだ。当日になれば母の作るお弁当をのぞき見したり、引率の先生の話す注意事項を聞かずに友だちと喋ったり、バスの中でのレクリエーションで盛り上がったり、はしゃぎ過ぎてバス酔いしたり、気になる女の子にちょっかいだしたり、集団から抜け出して遊びに行ったり・・・。でも、それが楽しいのだ。それも含めて、遠足なのである。

私は、ロングトレイルも同様であることに気がついた。

トレイルだけが楽しいわけではない、歩くだけが楽しいわけではないのである。

ロングトレイルは、その距離の長さから、食料補給のために必ずトレイルを離れる(街に訪れる)機会がある。そこで、その土地の料理を食べたり、文化に触れたり、人と出会ったり・・・これもロングトレイルならではの楽しみであり、これも含めてロングトレイルであると私は思うのだ。だからこそ、このブログでも敢えてトレイル外の話を多く盛り込んでいる。決して、おふざけでやっているわけではないのである。

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また、このブログのスタイルは、多くのハイカーに出会う中で感じた違和感も大きく影響している。ハイカーと話していると、「お前は、なんの目的でPCTを歩いてるんだ?」というフレーズをよく耳にする。答えとしてしばしば出てくるのが、「アドベンチャーに挑戦したくて」と「チェンジ・ザ・ライフ」。PCTの目的に正解はない。もちろん、その人の自由だし、人それぞれでいいと思っている。ただ、私としては冒険偏重にはなってほしくないのである。

なぜか。冒険となると、自ずと踏破が目的になってしまい、トレイルを楽しむのではなく、距離をかせぐことに必死になってしまうからである。それは、ロングトレイルの本質ではないはずだ。数年前、私はトレイルランニングが趣味だったのだが、当時とあるトレラン関係者が、レース偏重の傾向を憂いていた。開催されるレースが増え、みんなこぞってレースに参加しようとする。スピードに執着する。しかし、それはトレランの本質ではないと。同感である。

実際、私はロングトレイル(PCTに限る)には冒険的要素はないと思っている。2650mile(約4200km)という数字やアメリカ縦断という言葉から冒険と思われがちだが、日々は至ってフツーのハイキングである。危険を顧みずにトライする箇所もなければ、何度もアタックしないとクリアーできない難所があるわけでもない。加えて、人生が変わることもない。仕事面の何かを変えたいのであれば仕事と向き合うしかない。私生活の何かを変えたいのであれば私生活と対峙するしかない。人生そのものを変えたいのであれば生まれ変わるほかない。ハイキングで人生が変わるのであれば、苦労はないのである。

多くの人が持っているであろう『冒険』や『壮大な挑戦』というロングトレイルのイメージを、私は払拭したい。そして、ロングトレイルの敷居をもっと下げ、より多くの人にロングトレイルの楽しさを味わってほしいと願っている。だからこそ、私は声を大にして言いたい。

“ロングトレイルは遠足である” と。

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